【柳沢有紀夫の視点】海外生活はプラス? マイナス?(オーストラリア移住20周年を迎えて)

サムアップとサムダウン

「海外書き人クラブ」および「海外進出サポートネット」お世話係の柳沢有紀夫です。

じつは本日2019年6月21日は、わが家の「オーストラリア移住20周年記念日」。いい節目なので、「移住して良かったこと・悪かったこと」を振り返ってみます。

とくに移住当時の私と同世代の30代やそれより若い20代、いやいや、これから人生を切り開こうと考えている10代の人たちに読んでいただきたいと思います。

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まずその前に「なぜ私が家族で移住したか」少しだけ説明しましょう。それが「移住して良かったこと・悪かったこと」と密接に関わってくるので……。

なぜ私が移住したか

移住当時、子どもは6歳、5歳、1歳4ヵ月妻も私も日本人です。配偶者が外国人であれば、その人の母国に移住するのもよくあることでしょうが、2人とも日本人というのは、かなり珍しかったと思います。

そのころ私は外資系の広告代理店でコピーライターをしていたのですが、「オーストラリアに移住するから退社します」と上司や本部長、社長に言っても誰も信じてくれない。「わかった、わかった。冗談はいいからどこに行くんだ? 電通か? 博報堂か?」と、見事に全員から尋問されました(笑)。「私がヘッドハンティングされると思いますか?」「……まあ、確かにないよな」って納得しないでほしかったんですが。それはさておき。

 

移住しようと思った一番の理由は……じつは「移住ありき」ではないんです。そもそもの出発点は「オレ、残業ばっかりしてて、子どもと過ごしていないなあ。せっかく奥さんが痛い思いをして3人も産んでくれたのに、このままじゃ子育て全然楽しまずにオッサンになっちゃうじゃん」という生き方への疑問でした。

頭を抱える男

で、「家族と仕事、どっちが大事か」と考えたとき、「そりゃあもちろん家族! ……けど仕事も大事だよなあ」とは思ったのですが、それと同時に「仕事は後からでもできるけど、子どもが子どもでいるのは今しかないじゃん」とひしひしと感じたわけです。26歳、25歳、21歳になった今でも、わが子はわが子で相変わらず愛おしいのですが、でも彼らが6歳なのは6歳のときだけだし、8歳なのも10歳なのも12歳なのもそのときだけです。

というわけで「よし、子どもといるために会社を辞めよう」と決意しました。よく言えば大胆ですが、普通の言い方をすればアンポンタンで。

 

会社を辞めるのであれば、何も東京にいる必要はありません。子育てには自然がいっぱいあるところのほうがいいと常々思っていたので、空き家になっていた兵庫県の田園地帯にある妻の「実家の実家」を借りて、ライター仕事でもしようかと最初は考えました。

ところがあるとき、「いや、今から海外移住するのもありなんじゃない?」と気づいたのです。というのは「リタイア後はオーストラリアに移住しよう」というのが妻との結婚当時かからの約束だったのですが、「よくよく考えたら60歳過ぎてから移住するより30半ばのほうがパワーも対応力もあるじゃん」と感じたのです。

ジャンプする人たち

そういう「家庭の事情」とは別に、もう一つ私の「人生の目標」がありました。コピーライターとしての日々は楽しかったのですが、もともと「本を書く人になりたい。特に物語を書く人になりたい」というのが子どものころからの夢があったのです。で、「このまま忙しくしてたら、本や小説を書くという夢を実現できずに一生を終えちゃうんじゃないか」と、焦りも感じたのです。

というのは大学を卒業してから10年以上も「物を書く仕事」をしていたのに、私は小説を一文字も書いてこなかった。書き始めることもしていなければ、構想を練ることもしていなかったのです。毎日の忙しさにかまけて。日々の仕事の充実に満足してしまい。

「人生の夢」を実現するための時間をまったく取らず、努力を一つもしていなかったのです。

これではいけないと感じました。何かを変えなければいけないと感じました。

そして「日本とは違う場所に行けば、文才のない自分でも本を書くチャンスは増えるんじゃないかなあ」と思ったのです。

 

この二つが「移住しよう」と思った理由です。要は「これはオレの人生じゃないな」と思ったのです。「素敵な家庭をつくろう」と結婚したのに家族といる時間がない物書きになる修行をしようと思ってそういう仕事を選んだのに、何も自主的には書いていない。「全部本末転倒じゃん」と感じたのです。

前置きが長くなりましたが、これが移住を決意した理由です。

さていよいよ、「移住して良かったこと・悪かったこと」。まずは「良かったこと」です。

 

移住して良かったこと1 家族と充分な「時間」をとれた

父と娘の後ろ姿

移住してフリーライターになったのですが、最初はなかなか仕事がなくて、「これじゃあ生活がヤバいから働きに出ようか」とふと思い、「いやいや、それじゃあ。本末転倒。子どもたちといっしょにすごしたいから移住したんじゃないか」と考え直すことが何度もありました。

まあ、どこかに就職していたとしても、オーストラリアでは社会全体が「家族優先」なので、日本でよりもずっと子どもと過ごせたとは思いますが。たとえば小学校の運動会は平日の午前中行われるのですが、会社勤めのパパやママもみんな半休を取って応援してから出社するのがあたりまえです。

とにかく子どもたちとは充分にいっしょの時間を過ごすことができました。20年以上も生きていれば彼らの人生も山あり谷ありで楽しかったことばかりではないでしょうが、彼らがいちばん困っていたときにもいっしょにいてやることができたと思います。どれだけ手助けできたかはわかりませんが、少なくとも「母親だけでなく、父親も合わせて2人で寄り添ってくれている」という安心感だけは与えることができた気がします。

なにぶん子育てはたった3回しか経験していないので「いい親」になれたかはわからないですが、少なくとも「濃い親」であることはできました。

今でもよく話をするし、関係が濃い家族だと思います。悪く言えば「子離れ・親離れ」が足りていないのかもしれませんが(笑)。それでも特に息子たちを見るたびに、「自分もこの年代のころ両親に背を向けてばかりいないで、こんな風に接してやれば良かった」と反省します。

 

移住して良かったこと2 「夢」が実現できた

喜ぶ人の後ろ姿

「日本以外の場所にいたほうが夢を実現するチャンスはある」というのは考えていたとおりで、移住から1年も経たずに「知り合いの知り合いの知り合い」から「オーストラリア生活に関する本を書きませんか」と声をかけてもらえました。その半年後に完成したのが、『極楽オーストラリアの暮らし方』という第1作。その1年後に出した『オーストラリアで暮らしてみたら。』という第2作も「知り合いの知り合い」からの打診です。持つべきものは友だち、人とのつながりです!

タイトルからおわかりのように、この2冊はオーストラリア暮らしを始めたからこそ編集者から声をかけてもらえた本です。それ以降、まあ定期的に本は出せています。ベストセラーはないですが。

 

さらにそれから10年以上あとになりますが、夢だった小説も別名義で3冊出せました。新人賞を取ってではなく、本名のほうの仕事でお世話になっている編集者が声をかけてくれた話です。やはりここでも「持つべきものは人とのつながり」です(とはいえ実力不足で4作目がしばらく出せていないのは反省点です。今日からまたがんばろっと)。

 

ただし人とのつながりだけで夢が実現できるわけではありません「夢を実現しよう」という気持ちを強く持ち、そのために行動しなければいけません

「人生の夢」はみなさんそれぞれなので、私の本が出せた経緯はあまり参考にはならないでしょう。ただいくつか言えることがあります。

少なくともオーストラリアでは日本で会社員生活をするよりも、「時間的余裕」ができます(たとえ会社員をしていても残業が圧倒的に少ない)。

「この年齢ではこれをしなければいけない」という規範のようなものもないです。他の人と違うことをしていても、後ろ指をさされるようなことはなく、むしろ「個性があっていい」と評価されます。

たぶんオーストラリアだけでなく他の外国でも、日本にいるよりは「夢を実現するための時間」をつくることもできますし、「夢を実現しよう」という気持ちを強めることができると思います。

結果的に夢に近づけるでしょう。

 

移住して良かったこと3 様々な「視点」を得られ、「変化」を恐れなくなった

様々な人種

良く言われているように日本はいい意味でも悪い意味でも一つの価値観が共有された社会です。そこからずれると「村八分」に遭う。つまり同じ価値観を持つことを強要されます。

それはある意味では「ラク」です。自分で考えなくてもいいのですから。いや、自分で考えてはいけないのですから。

ただ「ラク」ではあるのですが、共通の価値観しか持たないことは「成長への足かせ」になります。

日本は一人あたりのGDP(国内総生産)がこの10数年ほぼ横ばいです。2000年は3万8536米ドルで、18年後の2018年は約3万9306米ドル。2000年は世界2位だったのに、今な26位です。

この「低成長」というよりも「無成長」ぶりは、「新しいことを考えようとしない。考えても実現しようとしない」という姿勢が産んでしまったものだと思います。

で、この姿勢を正すには何をしたらいいかというと、とにかく一度海外に出てみるのがいちばんです。そして様々な視線や価値観を肌で触れることです。新しいことを始めてやろうとギラギラしている人と触れ合うことです。そうすればあれこれ考えて、実行する人間に変わる可能性が高まります。

手前みそになりますが、私は移住の10ヵ月後に「海外書き人クラブ」という組織をつくりました。要は「仕事を増やしたいけど編集者の知り合いが少なくても困っている海外在住ライター」と「海外ものの企画をしたいけど海外在住のライターなんてほとんど知らないから実現できないと困っている編集者」とをつなげるものです。

これも海外に出てフリーランスになり、「いやいやいや。仕事っていうのは会社から与えられるものじゃなくて、自分で見つけてきたり作り出したりするもんだぞ」と気づいたことが生まれました。

ちなみにこの会に関して「つまり今、流行りのマッチングアプリみたいなものを20年近く前に最初に考えたのが……はい、じつは私なんですよ」とあちこちで吹聴していたんですが……ついさきほど、ふと気づきました。「あっ、確かその前からテレクラっていうのがあったな」と(笑)

 

移住して良かったこと4 日本がさらに好きになった

和室

「ふるさとは遠きにありて思うもの」と言いますが、まさにそうかな、と。離れているからこそ、恋焦がれてどんどん好きになります。

で、日本に一時帰国したら、近場の温泉銭湯(私の実家がある東京都大田区近辺には温泉が出る銭湯がたくさんあるのです)に行って、一時間過ごすだけで「ああ、日本人で良かったあ」。たぶん日本でずっと暮らしていたら、銭湯などにはなかなか行かなかったと思います。一泊とかの温泉旅行はしたでしょうけど。

それと神社仏閣や城や庭園で「ああ、いいなあ。日本に生まれて良かったなあ」と実感することもなかったかもしれません。

 

日本食に関しても同じというか、ずっと日本にいたら見向きもしないようなものが「ああ。おいしいねえ」と感じられるようなりました。たとえば「ひじき」とか「ぬた」とか「菜の花の辛し和え」とか山形名産の「だし」とか。

たぶん日本で住み続けていたら、自分から率先して買ったりつくったりしようとは思わない。食べても「ふーん」で終わってしまう。でもたまに一時帰国して、そうしたある意味で地味で普段は見向きもしない食べ物を口にするたびに「これはこんなにおいしいものだったんだなあ」と感じられる。それは幸せなことです。

 

移住して良かったこと5 好きなスポーツを続けられている

サッカー

移住した翌年にアマチュアサッカーチームに入って、今年で20シーズン目になります。と書くと「ああ、サポーター?」という反応が時々来るのですが、自分でプレーしています。

秋から冬にかけてのシーズンは毎週金曜日の夜にリーグ戦の試合があって、トータル25試合前後。火曜日にはトレーニングがあります。

20年。長いですよねえ。チームメートにはよく言われるんですけどね。「在籍期間だけはレジェンド」と。

「キング・カズより年上じゃん。いくらアマチュアとはいえ若者に混ざって大変だろ」ということも聞こえそうですが、今所属しているのは「オーバー40」、つまり40歳以上のリーグなのでそこまでしんどくはありません(とはいえ40歳になったばかりのチームメイトや対戦相手とも歳の差を感じますが……)。

まあ、とにかく。

日本でこんな風に毎週リーグ戦があるサッカーをしている同世代がどれくらいいるのか。日本だとランニングやウォーキング、登山や水泳くらいですよね、中年のスポーツと言えば。球技と言えばゴルフかテニスくらい。それらが好きな人はいいですが、「集団スポーツがしたいなあ」と思ってもなかなかその場がない。せいぜいフットサルくらいでしょうか。その点、オーストラリアではいくつになっても……はさすがに言い過ぎにしても、いいオッサンが好きなスポーツを楽しめます

80歳くらいのサーファーとかもいますし……。

あっ、そうそう。サッカーのグラウンドはどのチームもホームもみんな、きれいな芝生です。

 

さて、「良かったこと」だけでなく「悪かったこと」も書いておきましょう。「悪かった」というよりも「さびしいこと」「残念なこと」に近いのですが……。

 

移住して悪かったこと1 バカ騒ぎがなかなかできない

バナナを拳銃みたいに持つ男

日本では友だちどころか初対面の商談相手でもジョークとギャグを連発して楽しむ私なのですが、英語だとなかなかそれも……。瞬時に状況を判断してジョークやギャグで切り返すっていうのは、ネイティブレベルどころじゃない語学力が必要になってきますから。

サッカーチームでも試合前のミーティングでは普通に話して、試合中も人一倍偉そうに激を飛ばしていますが、試合後みんなでビールを飲む段になるとおしゃべりについていくのも大変です。「慣用表現」だけでなくいわゆる「四文字言葉」や「スラング」も混じってきますし、様々な言外の意を込めたおちょくりやいじあいがあり……。

でもまあその分、日本に一時帰国した際の大騒ぎが楽しいのですが……。オーストラリアではそれができないストレスで、余計日本では騒ぐのかもしれません。

 

移住して悪かったこと2 食事を自分たちでつくらないといけない

日本食

一時帰国のたびに感心するのが、スーパーマーケットで売られるお惣菜の豊富さ。オーストラリアでは出来合いのものはほとんど売っていないです。ポテトサラダとかマカロニサラダとか……そんな程度かな? 当然日本風のお惣菜なんてないですし。

で、すべて自分たちで作らないといけない。まあ、それはそれで楽しいのですが、「日本で暮らすのはラクでいいなあ」と思わないこともありません

 

とまあ、そんな感じの20年でした。

最後に「まとめ」です。

日本に一時帰国したとき、初対面の人によく「えーっ。海外に住んでいるんですか。大変でしょ?」とよく訊かれます。

「ええ、本当に大変ですよ。日本に住み続けるのの10倍は大変だと思いますよ」

そう答えると、訊いてきた人は「ああ、やっぱり」という顔をされるのですが……。

「だけど日本に住み続けるのの少なくとも100倍は刺激があってエキサイティングですよ」

特に若い人には、ここを強調したいです。

「海外生活は10倍大変だけど、100倍刺激があるよ」と。

別の言い方をしましょう。

目の前の「楽(ラク)」をとるか、大変さの向こうにある「楽しみ」をとるか。

ジャンプする人たち

互いがんばって楽しみましょう。

(文 柳沢有紀夫)

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コメント

  1. いとう より:

    yanagisawa yukioさん、ご無沙汰しております。
    2003年に当時1歳10か月の長男を連れてお邪魔した伊東です。
    その後次男も生まれ、まだ17歳と13歳ですが、育児中です。
    その後、オーストラリアですが、ブリスベンには行けてません。すみません。
    その代わり、他のところにはちらほら・・・
    ゴールドコーストには2016年にマラソンに参加のため。
    2017年はタスマニアへ。クレイドルマウンテンの他方々へ。
    2018年は9月のシドニーマラソン参加のため。
    そして今年は8月にシドニーファンマラソンに家族で参加するため
    ということで、相変わらず腰も落ちつけず、オーストラリアばかり訪問。
    あ、2014年にはメルボルンのマラソンにも参加し、三大マラソンを制覇(笑)
    各コース150枚以上写真も撮ったので、本にしたい気分です。
    オーストラリアのブログも、毎週書いてます。

    長くなりましたが、いずれまたブリスベンに訪問したいと思いますので、その時にはぜひ
    お会いさせてください。
    まずは近況報告まで。

    1. Yukio Yanagisawa より:

      いとう様

      ご連絡ありがとうございます。
      海外マラソンといえば先日、こんな本をプロデュースしました。

      『海外のいろんなマラソン走ってみた!』りん みゆき著 (彩図社)
      https://www.saiz.co.jp/saizhtml/bookisbn.php?i=4-8013-0377-5

      お手に取ってみていただければ幸いです。

      それと規定によりブログのアドレスは削除させていただきました。
      ご了承ください。
      今後とも「世界のコトなら」をよろしくお願いします。

      柳沢有紀夫

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